SHIPYARD出版

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武田軍の一騎の騎馬隊は、武田勝頼に武田信玄よりの伝令を伝えるために差し向けられたものであった。その騎馬隊に乗っていたのは、女忍者 くの一であった。くの一は急ぎ信玄からの書状を勝頼に手渡した。信玄からの書状には、「徳川家康を討ちとるべからず、今は逃がすべき ...

岐阜城 総攻撃の前夜 秋山信友とおつやはいつも通り、寝床をともにした。信友はしばらくの間 おつやに会えないことをさびしく思った。一方、おつやは信友に抱かれつつも、密かに信友の寝首をかく機会を伺っていた。そして、信友がおつやを激しく抱きしめたとき、おつやは ...

時は少しさかのぼり、武田軍は武田信玄率いる本体と秋山信友率いる別動隊の二手に分け、上洛作戦を転じていたのだった。武田軍本体が1572年10月 甲府 躑躅ヶ崎の館を約三万の兵を率いて、上洛に向けて出陣したそのころ、伊那の高遠城主であった信友は伊那衆4千の兵を率い ...

築山御前は、石川数正に目通りを許されると、昔話をし始めたのであった。1560年の桶狭間の戦いで、今川義元が討ち取られたとき、徳川家康は、今川軍を裏切り、そのまま岡崎城に入城した。一方、築山と亡き松平信康は、今川家の駿河館に残され今川氏真の人質になったのであっ ...

徳川家康は、嫡男 信康の仇を討つため、家臣の反対を押し切って、3千の兵を従え、2月14日に浜松城から出陣した。浜松城には、家臣 石川数正が残り、家康の留守を守った。そして、築山御前も浜松城に残されたのだった。また、岡崎城から逃れた築山御前は、女子衆を従え信康 ...

浜松城を守る徳川家康が、嫡男 松平信康の討死を知ったのは第二次桶狭間の合戦の起こった1573年2月10日の翌日2月11日であった。信康の首は、家康の家臣 石川数正が家康に届けたのだった。そして、数正は、信康は武田信玄により、討ちとられたことを報告するとともに、羽柴 ...

影武者 武田信廉は、松平信康が再び、羽柴秀吉に寝返り、桶狭間の谷の北側まで差し迫っていたことは、すでに長久手で狼煙を見た時から察していた。信廉は信康と事前の密約では、長久手では狼煙を上げることは申し合わせしていなかったのである。長久手での狼煙は、信廉にと ...

不気味な輿を取り巻く兵士たちは、今川軍そのものであった。輿には誰が乗っているのか、誰も知るものはなかった。そして、その不気味な輿は桶狭間の谷間となり、輿を取り囲む兵も動きを止めた。 桶狭間の谷に入った羽柴軍は、その不気味な輿の前に立ちすくみ、これは1560年6 ...

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