LIFE
LIFE [CD]
小沢健二
EMIミュージック・ジャパン
1994-08-31


 
流動体について
小沢健二
Universal Music =music=
2017-02-22





 LIFEのジャケットを見てまず気づくことは、写真の小沢健二の顔がほとんど全部ぼやけているということだ。そしてLIFEを聴いてみて感じたのは、小沢健二は作者としての自分の存在を消してしまいたがっているのではないかということだ。

 

 ジャケット写真には、世界に対して「イエス」の叫びを上げて光の中へ溶け込む小沢健二がいる。中三の夏以来、ハックルベリー・フィンとして、或いは山下清として分裂し続けてきた小沢健二はここへきて統一されたのだろうか?

 そしてLIFEは前作「犬は吠えるがキャラバンは進む」(以下「犬」)とは非常に対照的なアルバムである。「犬」はとても内省的で言ってみれば、放浪する天才詩人のため息であった。そしてとても「頭」で聴きたくなるような作品だった。

 

 例えば「カウボーイ疾走」、この曲の詩には陳腐な言葉というのが見当たらない。個々のフレーズを取り出してみると、特に目新しくもなく場合によっては使い古されたフレーズになる恐れを十分に孕んでいる。しかしながら、これらのフレーズが小沢健二の詩の一部となった時、それらは鮮烈なイメージを放つ。 

 「アジサイの風景」と「丘を歩く彼女の姿」を並べて、しかもその二つを飛ばしてしまう、そのイメージ。そこにはポップアートの持つあっけらかんとしたクールなイメージと小沢健二の日本語の美しき一致がある。「きりがおおう広告」なんかもそのヴァリエーションだ。

 

 この「ポップアート的疾走感」を作品を貫くイメージとすると、「カウボーイの決意及び旅立ち」がこの曲のテーマだ。カウボーイにはモデルがいるらしいが、聴き手はそれを小沢健二の分身と見なさずにはいられない。その華麗な血筋と経歴のため、聴き手は何とか小沢健二の情報をキャッチしようとしてしまう。


 カウボーイは「本当のこと」へと動く。そして「とまどうだけの人たち」を笑う。「とまどうだけの人たち」とはおそらく「行く先のない」「皮肉屋たち」ではないか?小沢健二は「犬」を世紀末を終わらせた作品と認めている。このファーストアルバムには、作者としての小沢健二とそれを頭で聴く人たちとの幸福な関係があった。

 どころがこのように小沢を頭で聴いて、今回のアルバムにその続編を期待していた人たちは「LIFE」を聴いて、最初は裏切られたような気分になっただろう。LIFEは全身で感応すればいい作品、「ジャスト・ドゥ・イット」である。

 

 「LIFE」は計算されて作られた作品ではなく、それはおそらく爆発的なひらめきによって作られた。「LIFE」はそいういった意味で生命に従順な、ヘッドよりハートに従順なアルバムだ。学習される対象としてではなく、快楽を提供する存在でありたい。小沢はそのように発言している。その成果が「LIFE」だ。

 コンセプトだとか記号だとかを振り回すポストモダン文化の廃墟の中に、イリュージョンを見出さんとした「犬」。そしてそのイリュージョンの中へおもむろに突入した「LIFE」。アーバンボーイのため息から、爆発するアムールへ。

 もし小沢が「犬」のテーマを発展させる形でアルバムを作ろうとしたら、きっと彼は行き詰ったはずだ。しかし小沢は「そんな馬鹿な過ちはしない」のだ。

 

 小沢の二枚のアルバムは対照的だけれど、「LIFE」で花開くことになった蕾は「犬」にある。「犬」なくして「LIFE」は出来なかった。また「LIFE」なくして「犬」は完全ではない。この二枚のアルバムは表裏一体のものだと言える。だからこの二枚のアルバムから構成されるライブが凄いのは当然だ。

 

 そこにはスピリチュアルなものとポップなものを統一させた小沢がいる。そこには人生という旅を渡るのに必要な信念と愛と希望がある。小沢は別に小沢より賢くない大部分の若者たちに野合しているわけではない。小沢という作り手を強く意識する必要はないのだ。

 小沢はそんな容量の小さい装置ではない。「LIFE」に関しては知的な聴き手であらんとする人々は、素直に「LIFE」のパワーを享受する人々に敗北する。

 

 そしてこれから小沢健二がどこへ行くのかは、誰にもわからない。ひょっとしたら急に姿を消してしまうかもしれない。そんな危うさのために、僕らは「LIFE」を聴き続けるのだ。


LIFE
小沢健二
EMIミュージック・ジャパン
1994-08-31



流動体について
小沢健二
Universal Music =music=
2017-02-22