武田信玄は12月下旬に労咳の病に倒れてから1カ月以上の間、床で休み養生していたが、病の峠は越え、回復傾向にあったのだった。どうやら労咳悪化の要因は寒さに原因があり、2月になり、気候も小春日和の温かい日々が続き、信玄の労咳の病は峠を越し、回復傾向に向かったのだった。そして、薬師にささえられ、信玄は咳音を大きくたてながら、約1カ月ぶりに家臣団の前に姿を見せたのだった。



 病の回復傾向にある武田信玄をみた武田家臣たちは、安堵のまなざしであった。しかし、信玄はまだ戦場で指揮が出来る状況まで、病は回復してなかった。回復は一時的なものかもしれず、まだ予断はできないとのことであった。そして信玄はあらためて、病に伏している間の状況を武田信廉から報告を受けたのだった。



 武田信玄は、武田勝頼の一刻も早く西に向かい織田信長を倒すことには同意したが、その前に、強敵 羽柴秀吉を倒す策を立ててから、軍を動かすように指示をした。信玄は秀吉の金ヶ崎の戦いでの信長を逃がすためにしんがり役を務めた勇猛ぶりを知っており、上杉謙信以上に手ごわい相手と見ていた。信玄は昔、謙信との川中島の戦いを思い出していた。そのときは亡き山本勘助の立てた啄木鳥先方が謙信に事前に見破られ、苦戦を強いられ、武田信繁、山本勘助を戦死させた苦い思いを思い出していたのだった。



 軍議は、武田信玄の指示により、いかに羽柴秀吉を打ち倒すかという論議となった。武田勝頼は秀吉恐れるに足らず、軍勢の数の上で秀吉を力攻めで討ち負かすべき、武田信廉は長島一向衆と手を組み秀吉を挟み撃ちすべき、高坂弾正は、秀吉の弱点は女にあり、秀吉の熱田の陣に華麗な女を送り込み、秀吉を暗殺するべき、馬場信春は、秀吉の軍師 竹中半兵衛を調略すべきと進言した。

 その他、秀吉の正室おねを人質にする、秀吉の母なかを人質にする、するなどの意見がでたが、信玄は全ての案を却下した。武田信玄の心の中には秀吉に圧勝できる秘策があったのだった。信玄は病で養生しながら、いかに秀吉を討ち負かすか常日頃考えていたのだった。その信玄の秀吉を討ち負かす秘策とはいかなるものなのか?

<つづく>