しかし、武田信玄は、まだ出陣できるまで病は十分に回復しておらず、誰を大将とし、桶狭間まで武田の軍勢を進めるかが論議となった。薬師によると、信玄は自ら出陣するためには、少なくともあと10日は療養が必要とのことであった。



また、武田軍は武田信玄の影武者 武田信廉により吉田城をすでに攻略していた。そこで、信玄は引き続き信廉を信玄の影武者として、2万の軍勢を率い西に向かうことを命じ、残り5千の兵は後方の徳川家康の備えとして、信玄と武田勝頼が野田城で待機することとしたのだった。



そして、1573年2月8日 武田信廉は武田信玄の影武者として、風林火山の旗をたなびかせながら2万の軍勢を従え野田城をあとにし、西に向かい出発したのであった。



 一方、三方ヶ原の戦いで敗戦した浜松城で起死回生を伺う徳川家康は、武田軍の軍勢が武田信廉の率いる2万の軍勢は武田信玄自ら率いるものと信じ、手薄となった野田城奪還に向けて軍を動かす手はずを整えていた。家康は家康の率いる軍勢8千と、岡崎城を守る嫡男 松平信康の3千の軍勢、熱田に布陣する羽柴秀吉の5千の軍勢で挟み撃ちする戦略であった。



また、羽柴秀吉もまた、武田信廉の率いる軍勢を武田信玄と信じ込んでいた。そして、信玄率いる2万の軍勢が西に向かったことを察知し、熱田の陣にて、いつでも、武田軍を迎え撃つ準備ができていた。また、秀吉は岡崎城を守る徳川家康の嫡男 松平信康に武田の軍勢が岡崎城を攻略してきたとき、岡崎城を武田軍にわざと負けたふりをし、岡崎城を武田軍に明け渡した上で、桶狭間では、武田軍の側面を奇襲するよう申し合わせていたのであった。



ところが、密かに武田信玄は、徳川家康の正室である築山御前に武田軍上洛のおりには、武田軍に寝返るよう密書を受けていた。そして築山は、徳川の家を存続させるために徳川家康には内密に、松平信康とともに武田軍に寝返ることを既に決めていたのであった。

<つづく>