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29日 約2万の軍勢をしたがえる武田信玄の影武者 武田信廉は、風林火山の旗をたなびかせながら、岡崎城の手前まで軍を進め、岡崎城を取り巻こうとしていた。信廉の姿は、まさに信玄の生き写しのようで、軍勢の皆は、皆の軍勢を率いる大将が信玄だということを疑わなかった。



一方、武田信玄は武田信廉のふりをし、武田勝頼とともに野田城で待機し、徳川家康が万が一攻めてきたときの備えとして待機していた。信玄の病は、野田城で待機し、軍勢を指揮する段には支障はないぐらいまでは回復していた。



岡崎城を守る松平信康は、羽柴秀吉との申し合わせ通り、わざと降伏し、武田信廉軍が岡崎城を取り囲む前に岡崎城を捨てて逃げ、戦うことなく岡崎城を武田軍に明け渡した。岡崎城は、信康の妻女で、織田信長の娘である徳姫、そして徳川家康の正室 築山御前もいたが、信康とは別れ、岡崎城の女子衆を従え、蒲郡近辺にある金剛寺に身を隠す手はずとなっていた。



210日、雲ひとつない小春日和の晴天の中、信廉は岡崎城に少しの兵を残し、引き続き西に兵を進めたのであった。そして、豊明付近まで軍勢は達し、まさに桶狭間に差し掛かろうとしていた。



岡崎城を後にした松平信康の軍勢3千は、一旦 長久手まで兵を進め、そこで密かに待機したのであった。武田信廉は信康と内通していたので、信康の軍勢が長久手で待機していたことを当然のことながら知っていた。



そして、熱田に陣を引いていた羽柴秀吉は、桶狭間に向かうべく5千の軍勢を東に進め、軍勢が大高付近に達したところで、一時、兵を止め、松平信康に桶狭間へ向かうよう相図を送るため、のろしを上げたのであった。そののろしは、長久手にいた信康からも十分、識別できることができた。信康は武田信廉の軍勢を襲うふりをして、桶狭間で武田軍に寝返り、秀吉に奇襲をかける手はずとなっていた。



そんな中、羽柴秀吉のもとに密書を携えた一人の使者が訪れたのであった。なんとその密書の差出人は徳姫からの密書であった。そして、天候は桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討ちとられた時のように急遽、暗い雲が空を多い今にも雨が降り出しそうな様相となったのだった。

<つづく>