浜松城を守る徳川家康が、嫡男 松平信康の討死を知ったのは第二次桶狭間の合戦の起こった1573210日の翌日211日であった。信康の首は、家康の家臣 石川数正が家康に届けたのだった。そして、数正は、信康は武田信玄により、討ちとられたことを報告するとともに、羽柴秀吉も、武田軍に敗退し、討ちとられたとのことを家康に告げたのであった。

しかし、実際には秀吉は、討ちとられておらず、数正が、誤報として認識した情報を家康に伝えたのであったが、家康は秀吉が討ち取られたことは半身半疑であった。家康にとっては唯一の嫡男であり、信康を無くしたことを深く悲しみ嘆いた。家康は、早く追い打ちをかけて、西方に陣取る秀吉とともに、武田軍を挟み撃ちに出来なかったことを後悔したのだった。



すぐさま、徳川家康は、武田軍に対し、嫡男 信康の仇を討つべく、家臣団を集め、軍議を開いた。徳川勢は岡崎城が落ち、三河を武田勢に奪われ、遠江の一国のみの領地となった。周囲は武田軍に囲まれ、織田信長と遮断され、孤立状態であり、戦うには不利な状態であった。



軍議の中で、徳川家康の家臣 酒井忠次は、織田軍と武田軍の今後の戦の情勢を見極めるまで兵を動かさず静観すべしとの慎重的な意見を発したが、嫡男を失った家康は、31歳と若気の至りのせいか、冷静さを失い家臣の進言に聞き耳を持たず、一刻も早く、武田軍を討つべしとの結論に至った。



一方、築山御前は、息子 松平信康の死については、信康とともに武田軍に寝返りを企てていただけに、信康がなぜ武田軍に討たれたのか納得がいかなかったが、おそらく徳姫の仕業で、そのことが織田方に漏れたのではないかということは察していたのだった。しかし、築山御前の頭には、息子 信康が討たれたといえども、徳川家を存続させていくためには、織田側との同盟を断ち、武田側につくことが、唯一の道だという考えは変わらなかった。



ほぼ同じく時をして、野田城で療養中の武田信玄のもとに、影武者 武田信廉による桶狭間での羽柴秀吉への勝利の報が、女忍者 くの一から届くとともに、松平信康の討ち死にの知らせも伝えられた。信玄にとっては、信康の死は計算外であった。信康が我が軍に討たれた以上、近いうちに徳川家康は、野田城を攻めてくることは間違いないと悟った。

信玄は、信廉の勝利の吉報により、病は一気に回復し、すぐさま鎧を着て、家康を迎え撃つ準備を始めたのだった。信玄は、桶狭間の信廉が我の影武者 信玄を演じているため、信玄は、あくまでも我は信廉として、家康を迎え撃つため戦の準備に備えたのであった。

                                           

                                             つづく