徳川家康は、嫡男 信康の仇を討つため、家臣の反対を押し切って、3千の兵を従え、214日に浜松城から出陣した。浜松城には、家臣 石川数正が残り、家康の留守を守った。そして、築山御前も浜松城に残されたのだった。また、岡崎城から逃れた築山御前は、女子衆を従え信康の正室 徳姫と蒲郡の金剛寺に向かうはずであったが、築山御前と徳姫は不仲であり、徳姫とは行動を別にし、家康のいる浜松城へ戻っていたのであった。



第二次桶狭間の合戦で大敗し、熱田の陣まで撤退した羽柴秀吉は、織田信長に松平信康の謀反を含めた敗北の事態を説明した上で、援軍を願う使者を送った。しかし、その報を聞いた信長はひどく立腹し、原因が何にせよ、戦のさなか兵が居眠りして戦に負けることは、言語道断、織田家末代までの恥であり、しばらく岐阜城にて謹慎し、追って沙汰する旨の返書を秀吉に送りつけた。また、信長は徳川家康に亡き信康が謀反を企て、武田軍に寝返った事実は許しがたきことであり、家康の謀反の疑いを問いただすべく書状を送ったのだった。



そして、その書状は、すぐさま浜松城に届けられ、浜松城の留守役であった石川数正が受け取ったのであった。その書状を読んだ数正は、これは徳川家の一大事と、その旨を急ぎ徳川家康に伝えたのであった。また、築山御前は数正のすきを狙って、密かに織田信長からの書状を盗み読みし、もう徳川家は、武田に寝返るしか徳川家康の生き残る道はないと確信したのであった。



徳川家康が新居まで兵を進めていたとき、織田信長からの書状の知らせが石川数正から届き、亡き嫡男信康の信長への謀反の事実を初めて知り、戸惑いの表情を隠しきれなかった。信康がなぜ織田軍を裏切り武田軍に寝返ったのか、武田軍に寝返ったのになぜ武田軍に討ちとられたのか信じがたい事実であった。そして、家康は真相を確かめるべく、岐阜城で謹慎中の羽柴秀吉にひそかに使者を送ったのであった。内心ではきちんと事実関係を把握した上で、武田軍と戦に備えるべきではと考えていたのであった。



徳川家康の浜松城の出陣を確認した武田信玄は、まずは、武田勝頼に3千の兵を従えさせ、家康の軍勢を待ち伏せすべく、二俣あたりまで軍をすすめた。一方 信玄は、浜松城にいる築山御前に密書を送り、石川数正を説得し、再度、武田軍に寝返るよう工作をするのだった。



武田信玄より武田軍に寝返るよう密書を受け取った築山御前は、これは絶好の機会であり、武田軍に寝返ることを石川数正に説得するために、数正のもとを訪れるのであった。

                                               つづく