築山御前は、石川数正に目通りを許されると、昔話をし始めたのであった。1560年の桶狭間の戦いで、今川義元が討ち取られたとき、徳川家康は、今川軍を裏切り、そのまま岡崎城に入城した。一方、築山と亡き松平信康は、今川家の駿河館に残され今川氏真の人質になったのであった。翌年 数正は、氏真と交渉し、家康が三河平定戦の時に人質にした今川側の鵜沼長照の子2人と築山と信康2人の人質交換に成功したのだった。それ以来、数正と築山とは禁断の仲になった。この時 数正は37歳 築山は30歳であった。



石川数正は、信康を亡くし哀しみにくれる築山御前を温かく慰めるのであった。数正は築山と久しぶりに同じ寝床で夜をともにした。そんな中、築山は、信康を討ったのは武田方ではなく、徳姫を使い信康を窮地に陥れた織田方であると泣き叫んだ。数正は、築山の言っていることに理解に苦しみ聞く耳を持たなかった。しかし、築山が織田信長と徳姫のやり取りした一通の手紙を数正に見せたのだった。この手紙は築山が徳姫のすきを見て、密かに手に入れた極秘の手紙であった。その手紙を読んだ数正は、顔色を変えたのであった。



そのころ徳川家康は、しばらく新居で亡き嫡男 松平信康の謀反の疑いの真相が分かるまでは、武田軍を迎え撃つのは得策ではないと判断し、浜松城に戻ることとした。一方、二俣にいた武田勝頼は家康の進軍の動きが遅くなったことを察知し、これは好機と二俣から一気に新居まで兵を進めていた。そして、勝頼率いる3千の兵は浜松城に戻る家康軍を背後から追い打ちかけたのであった。



武田勝頼は武田信玄からは、もし徳川家康が攻めてきても、決して家康を深追いしてはならぬと釘打ちされていたが、勝頼はこの時、26歳、なんとしても父 信玄を見返すために家康を討ちとることに血気をはやらせていた。勝頼軍の追い打ちを察知した家康は、三方ヶ原の戦いで敗北した面子もあり、そのまま浜松城に戻る訳にもいかず、追ってをかける勝頼軍を迎え討つのであった。



また、影武者 武田信廉は大高城に武田本体を待機させ、近々起こるであろう織田信長との決戦に備えるため、病が回復した武田信玄に大高城に合流するよう書状を送るのであった。信廉にとっては、信長の決戦には大将 信玄の戦の采配は不可欠だと考えていたのであった。



岐阜城にいる織田信長もまた、武田本体との決戦に備えるため出陣の準備を進めていたが、信長にとって気がかりであったのは、武田軍の別動隊として美濃の岩村城まで兵を進めていた秋山信友の動きであった。

                                       
                                            つづく