「嫌われたい」と思って生きている人間はいないだろう。出来れば誰にも嫌われたくない。それでも人間と接触する限り、自分を嫌う人間は次から次へと登場する。あえて嫌われ者にならざるを得ない局面、立場は少なくない。「嫌われてもいい」という心境になるにはやはり「勇気」が必要なのだと思う。

 『
嫌われる勇気』によると、誰からも嫌われないためには、周りの人全員に忠誠を誓い、誰にも悪い顔をしないことしか答えがない。嫌われないためには、自分にも周りの人にも嘘をつき続けることになり、その結果その人は苦しい人生を送ることになる。そして最後には、かけがえのない自分のことまで嫌いになってしまうのだ。そうならないためにも嫌われる勇気を持てと言う。嫌われることを恐れていては、自分の生き方を貫くことはできない。

 本書は欧米ではフロイト、ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」と言われながら、日本ではあまり知られていない(受け入れられていない)アルフレッド・アドラーの「アドラー心理学」について、京都に孤独に暮らす哲人と人生に悩む若者が対話形式により激論を交わしている。

 アドラー心理学は大胆にもずばり「全ての悩みは対人関係にある」と言う。 又、過去に何があったとしても未来をどう生きるかについてはなんの影響もないということから、すでに一般的に誰もが常識として語る「トラウマ」を明確に否定して、原因ではなく目的で考えよと説く。

 更に挑発的な考えは続く。「他者からの承認を求めることの否定」「他者の期待など満たす必要はない」「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」。空気を読んで慎重にコミュニケーションを取らないと生き残れない日本人にとっては、確かにかなり勇気の必要な考え方かもしれない。

 ただ本書が言いたいことは、自分の人生は他人のためにあるのではないということ。自分の人生を生きるのはあくまでも自分であるということだ。
そしてアドラーは「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」という言葉を残していて、「今・ここ」を生きることを、誰になんと思われようと、まず自分から始めることが大事だと語る。


 アドラー自身は自分の心理学を、
個人心理学individual psychology)と呼んでいた。それは、個人(individual)が、in(=not) + L.dividuus(=devisible 分けられる) + al(の性質)=分割できない存在である、と彼が考えていたことによる。

 これに対して作家の平野啓一郎さんは「私とは何かー『個人』から『分人』へ」という著作の中で、in を取った devisible(分人)という概念を提唱している。 

 「私とは何かー個人から分人へ」の目的は、人間の基本単位を考え直すことだ。分人とは何か?この新しい、個人よりもひと回り小さな単位を導入するだけで、世界の見え方が変わる。すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話なのだ。

 たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。恋人との分人、家族との分人、職場での分人、ネット上の分人、趣味との分人。

 一人の人間は複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。そしてその人の個性は複数の分人の構成比率で決まる。自分のたった一つのアイデンティティについて苦しむ必要はない。以上が簡単な分人の考え方である。 

 アドラーは「何歳になろうが、どんな人生を経験してこようが、当人の意志によって性格は変えられる」と言うだろうが、平野さんは「当人の行動により、分人の数や比率は変えられる」と言うだろう。両方合わせて読むことをオススメします。