くっすん大黒 (文春文庫)
くっすん大黒 (文春文庫) [文庫]
町田 康
文藝春秋
2002-05




 
町田康さんの伝説のデビュー作「くっすん大黒」です。町田康さんが小説家としてデビューする前はパンク歌手として活躍していたのは有名です。歌手の時は町田町蔵という名前で活動しており、ファンの間ではすでにカリスマでした。

 町田さんの「夫婦茶碗」という小説が発売された時に、六本木の青山ブックセンターの町田さんのサイン会に行きました。女性ファンがとても多くて、町田さんは何度も女性ファンにせがまれて一緒に写真撮影をしていました。

 私がサインをしてもらう時、サインをする前に町田さんは顔を上げ、わずか2,3秒だったと思いますが、感謝の気持ちの込もった眼差しを私に向けてくれました。サインは非常に達筆な文字で、「作家たるものサインもこれほど見事な筆なのか」と驚き、そのサイン本は今でも宝物です。

 しかし後年、町田康さんが語ったところによると「パンク歌手」というのは差別語だそうです。「パンク歌手」というのは社会の最底辺だそうです。町田康さんは自分のことをこう言っています。

 「頭ええ小説とアホな小説とあったとしたら僕はアホの側」。

 実は私が彼に惹かれるのは、まさに「アホな小説」だからです。私もアホだから、その小説世界に思い切り感情移入してしまうのです。
 
 町田さんはこんなことも言っています。

 「なにをどうやっても、ちゃんと生きられない人というのがいて、僕も実はそんなところがあるんですけど、例えば駅まで行って、電車でどこかまで行こうとするだけで、何かひっかかりが生じてしまう。それだけのこともできない。でもそういう人だからこそ、どんな場面から始めても、小説がふわっとできてくる感じがするんですよね」 

 これは極めて興味深い発言であり、町田文学の本質が見えてくるというか、まさに小説が生まれる瞬間そのものです。

 さて「くっすん大黒」ですが、この小説は95年に発表され芥川賞にいきなりノミネートされましたが惜しくも落選しました。ちなみに受賞作は辻仁成「海峡の光」と柳美里「家族シネマ」でした。今思えば不思議な顔ぶれですね。

選考委員の選評を見ると、

宮本輝「私は格別の感想はない」
石原慎太郎「饒舌体の語りは面白いが、昨今都会に多い一種の精神的ホームレスといった人間像がいま一つ書き切れていない。」
黒井千次「前半と後半に分裂が見られ、意図の達成の阻まれた感があるが、このエネルギーとスタイルは見守って行きたいものである。」

 宮本輝さんはやけに素っ気ないのですが、石原さんの「饒舌体の語りは面白い」と黒井さんの「このエネルギーとスタイルは見守っていきたい」との評価は、この後急速に高まる町田文学の魅力の本質を言い当てています。

 「くっすん大黒」の登場人物は主人公も含めて、みなさん社会性ゼロの「ダメ人間」です。でも何故ダメ人間を描くことが評価されるのかというと「ダメ」というのは人間の本質というか、はっきり言って「誰だってダメ」な訳です。

 そして町田康さんの文体は、石原さんが評価したように、落語ばりの独特の饒舌文体になっています。そして笑いによる人間喜劇になっています。一番凄いのは言葉のリズムで読者をぐいぐい引っ張っていく力です。言葉が音楽です。言葉がパンクです。

 そもそもパンクは、商業化されてしまったロック、祭り上げられてしまったロックスターを一旦破壊し、原始的なリアルな音それ自体を追求する営みでもありました。町田町蔵もロックを否定することからスタートし、皮肉なことにスターとなりましたが、当時のインプロビゼーションは作家となった今でも強力に発揮されています。是非とも町田康ワールドの「ダメ」と「饒舌文体」を楽しんで頂きたいと思います。

『で、 自分は豆屋になろうと考えた。しかし、いったい、どうしたら豆屋になれるのであろうか。さんさんと陽が射し込む居間、座敷の真ん中の座卓、座卓の上の、急須、湯呑、カメラ、灰皿、新聞、そして、鉢植え、ラタンの飾り棚、猫のデッサン画、タピストリー、天使のタブロー画、などにくっきりと光と影。これら見慣れたものどもが、ことごとく実用性を喪失したようで、ただ空しくそこにあって、自分もまた、ねじり鉢巻きで、毛皮の敷物の上に立ち上がり、大声で叫んだのである。「豆屋でござい。わたしは豆屋ですよ」なんて。』(「くっすん大黒」からの引用)

 私が「くっすん大黒」を読んだのは就職して1年目の頃でした。早くも労働に嫌気がさし、何とかこの不自由極まりない暗黒世界から脱出したいと思いつつ、「会社を辞める訳にはいかない」という気持ちもまだあり、ひたすら私は町田さんと「くっすん大黒」の世界に憧れていただけでした。

 特に町田さんがデビュー前に半年以上家にこもり、毎日ひたすら本を読んでいたという逸話を週刊誌か何かで読み、「ああいいなあ。うらやましいなあ」と思うと同時に、いざとなればそういう生活も出来るさと自分を慰めていました。私は「くっすん大黒」で日頃の鬱憤を晴らし、自分を慰めていました。



くっすん大黒 (文春文庫)
町田 康
文藝春秋
2002-05







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