本作は1997年の新潮三月号に掲載され、同年5月30日に単行本が発売されました。私の知っている限り、最も刺激的で挑発的な装幀がこの「インディヴィジュアル・プロジェクション」の装幀です。もう「阿部和重の新作だから」という理由を差し置いて、「装幀買い」してしまいました。

 同様に感じた人は他にも多くいたようで、そのため本作はスマッシュヒットを記録しました。装幀は常盤響さんによるもので、CDのパッケージなども手がけていた常盤さんのアイデアが、その後の阿部さんの「渋谷系作家」というイメージに発展しました。

 そんな装幀ばかりが当初は注目された本でしたが、小説自体は装幀よりもさらに過激で革命的な作品に仕上がっており、一躍阿部さんの大出世作となりました。本作をもって阿部さんは文学新時代の旗手の座を不動のものにしたのです。それぐらい面白く新しく凄い小説でした。

 デビュー作の「アメリカの夜」では「バブル崩壊後の渋谷の終焉」が描かれましたが、本作では「渋谷は戦場」と化しています。「渋谷はいま戦争状態みたいだ!強烈な知的スリルで現代文学の臨界点を示す傑作長編」というキャッチコピーは秀逸でしたが、これを鵜呑みにしてしまうほど阿部さんの小説は甘くありません。

 物語のあらすじを要約すると、「主人公は映画館で映写技師をしているオヌマ。彼は秘密組織『高踏塾』で自分をサイボーグにするための訓練をしていた過去を持つ。オヌマはプルトニウム239と謎の映画フィルムをめぐり、ヤクザや旧同志との苛烈な心理戦、肉弾戦を繰り広げる」

 ところが実際は「苛烈な心理戦、肉弾戦」とは少し異なります。オヌマはスパイ塾生として訓練を積み「サイボーグ」のようになったのですが、その肉弾戦は「劇画的物語」として、ストレートな「戦争」を茶化すものとして描かれているのです。阿部さんがデビュー作から一貫して示している「批判」の姿勢はここでも変わっていません。

 「ぼく」はエンディング近くでこう語ります。「すべて終わったのだ。このおれ以外は。そう、ともかくおれは、ここ数ヶ月間極めて危機的な状況下にありながらちゃんと生き延びられた。おれはもはや素人ではない。これからはたぶんおれのような男が必要とされるはずだ」凄いぞおれ!と言わんばかりの自画自賛の嵐です。

 更に自画自賛の妄想は暴走します。「おれの技能は積極的に活かされるべきだ。むろん正義のためにだ。しかしおれだけでは足りない。おれのような人間を何人も養成する必要があるだろう」

 しかし残念ながら「ぼく」の野望はすぐに打ち砕かれます。「イノウエ」に「いかにも謎がありそうなあのフィルムを預けておけば、おまえは余計な行動に出ないとおれは判断したんだよ。実際そうなったじゃないか。おまえはひたすら謎を解くことしかできなかったからな」と言われてしまいます。

 もはや「ぼく」は「猿」でした。「ラッキョウを与えられた猿」でした。「ぼく」は脱力感をおぼえる。言葉を失う。そしてオヌマは窮地に追い込まれる。「見憶えのある長髪の高校生」たちがこちらを睨みつけ、オヌマを狙っていた。最後に「ぼく」は「胃薬が必要になるかもしれない」と弱音を吐いたのでした。







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