村上龍文学的エッセイ集
村上 龍
シングルカット
2006-01-11


 村上龍の「文学的エッセイ集」という本に「小野さんの思い出」というエッセイが掲載されている。随分古風なタイトルだなと最初は思ったが、エッセイを読み終わると「思い出」という言葉に微妙に引っかかった。自分のこれまでの人生の思い出がフラッシュバックしそうになって慌てた。

 村上龍が「限りなく透明に近いブルー」という小説でデビューし、最初に戸惑ったのが「文芸編集者」という人種だったそうだ。村上龍から見た文芸編集者という人種はロックやジャズを知らなかったし、そういうものを必要としていないように思えた。

 文芸編集者という人種は今もそうだが、超一流の大学で優秀な成績を残し、何から何まで特に欠点はなく、すべてに恵まれた人生を歩んでおり、芸術全般を嗜み、芸術の一ジャンルとしての文学への造詣が深く、心のどこかでは作家になりたいという気持ちも持っている、という人たちが多いのではないか。

 つまり村上龍とは世界が違う。そんな頃に出会ったのが小野さんだった。小野さんとはジャズの話ですぐに打ち解け、大学や高校の友人と会っているようで懐かしい感じがした。文芸編集者の中に同じ匂いを持つ同志を見つけてほっとしたのだろう。

 この後のエピソードは非常に貴重で興味深い。その後小野さんと村上龍は今の妻と三人で国分寺にある「ピーターキャッツ」というジャズクラブによく遊びにいくようになった。「ピーターキャッツ」の名前を知らない人はいないだろう。村上春樹がマスターをしていたジャズクラブだ。だから実は村上龍が村上春樹と出会ったのはお互いが作家になってからではなくて、正確にはデビュー直後の村上龍はデビュー前の村上春樹とよく会っていたということになる。

 この後の逸話には笑ってしまった。半年後の群像新人賞のパーティーに行くとピーターキャッツのマスターが小野さんと一緒にいたので村上龍は「こんなとこで何しているんですか?」と無邪気に話しかけたところ、小野さんに「バカだな、この人が受賞者だよ」と言われたのだ。これに村上春樹がむっとした、というのは嘘で、「別にそんなことはどうでもいいんだけどな」という顔をして村上龍と小野さんのほうを見ていたそうだ。

 いかにも村上龍と村上春樹らしい出会いである。これだけでお互いの人柄がよく伝わって来る。そしてこれは現在にまで至る二人の作家人生の歩みが対照的であることにも通じるものがある。この後しばらくして村上春樹は村上龍に猫をあげたという。

 小野さんが病気で入院してから村上龍は何度もお見舞いに行こうとしたが、どうしても行けなかった。その理由は村上龍らしい悲しいものであった。このエッセイを読み小野さんは村上龍にとってどんな存在だったのだろうと考えたが、派手にデビューして世間を騒がせ一夜にして有名人となった村上龍に出来た初めての大事な編集者友達だったのではないか。

 自分のことを文壇や出版業界で異質なものと感じて疎外感を持っていた村上龍に、そっと救いの手を差し出したのが小野さんだったような気がする。


村上龍文学的エッセイ集
村上 龍
シングルカット
2006-01-11