猫を背負って町を出ろ! (角川文庫)
大槻 ケンヂ
角川書店
2001-07-25



大槻ケンヂ(オーケン)の「猫を背負って町を出ろ」という本に「ムンク君」というエッセイが掲載されている。オーケンは18歳の春から夏にかけて、デザインの専門学校に通っていた。確か他のエッセイで大学受験は全て失敗してしまい途方に暮れたが、美術の教師に褒められたことを思い出し、「絵の才能があるのでは?」と勘違いしてデザイン学校に進学したと書いてあった。

18歳である。一番人生に悶々とする年頃ではないだろうか。もう子供ではない。かといってまだ大人にはなりきれない。まだ人生を諦められない。自分の可能性を何の根拠もなく信じたい。デザイン学校に集まった18歳の若者達は「自分には人とちがった何かがあるはずだ。そしてそれを人に伝えたい」という想いを心のよりどころにしていた。いつの時代にも「自分は特別な存在でありたい」と思う若者はたくさんいる。しかし理想の自分と現実の自分のギャップの大きさに悩み苦しみ、ギャップを受け入れて大人になっていく。

そんなデザイン学校でオーケンが今でも思い出す同級生が「ムンク君」だ。ムンク君はいつも教室の隅に席を取り、一日中誰とも口をきかず、一人黙って真っ白なケント紙を見つめていた。授業で課題が出されると一人だけ常軌を逸した絵ばかり提出した。それは「狂える心象風景」「滅茶苦茶に筆をふるい色をぶちまけた抽象画」「こいつヤバイと思われす不安感に満ちた絵」だった。

教師はムンク君にこう言った「君の夢を壊すようだが、この学校で教えるのは自己表現としての絵ではない。商業としてのデザインなんだ。君がどれだけ怒りや憤りや孤独をかかえていようが、そんなことは関係ない。企業のイメージアップや、商品を徹底的に売るための、仕事としての技術を俺は教えるだけだ。絵で想いを人に伝えたいなんて奴は、他へ行ってくれ」

辛辣な言葉であるが、大人である教師の正論でもある。資本主義社会で生きて行くために求められる技術を学ぶ。それが大人にとっては最重要なことなのだ。しかし18歳の若者たちにはそれを素直に認めることが出来ない。自分たちには「表現」をして、何かを世界に訴えて伝えたい欲望があるのだ。

オーケンはこの教師の一言だけで絵への想いが急速に冷めていった。オーケンは「絵で他人に自分を伝えるためにこの学校へ来た」のだから。ムンク君はその後も「地獄曼荼羅みたいな抽象画」を描き続け、「あいつおかしいんじゃないか?」と生徒たちはひそひそと話し合った。

しかしオーケンだけは彼の絵に感動した。「心の中を見透かされたようで恐怖さえ感じた」。「当時僕の体中を蝕んでいた、自分をとりまく全てのものごとに対する口惜しさを見事に絵として表現している」ように思えた。

とうとう教師はムンク君に聞こえるように「この学校、入試ないから、たまにイカれた奴が入ってきちゃうんだよな」と言った。ムンク君もさすがにこの言葉を聞いてこの学校に見切りをつけたのだろう。もう学校に姿を見せることはなかった。ムンク君は何を思って学校を去ったのだろうか。今はどんな大人になっているのだろうか。

オーケンは今でも「口惜しさ」を感じた時には、必ずムンク君の描いた絵を思い出す。オーケンの口惜しさとは、「怒り、憤り、孤独など、負の感情を、人に伝える術が見つからない時の、もどかしさ」のことだ。

オーケンは10代の頃から社会の中での自分の存在に悩んでいた。疎外され抑圧され孤立していた。その怒りや憤りをどうしていいかわからなくて苦しんでいた。今ではロックバンドもやっているし作家もやっている。表現方法を見つけたのだ。しかしそれは「夢が叶った」というような甘いものではない。

オーケンは一応は表現者として認められながら、それでもまだ「口惜しい」と思っている。表現者になったからといって「怒り、憤り、孤独などの負の感情」がきれいさっぱり消えていくわけではないのだ。逆にそれらの感情が無ければ表現者であり続けることも出来ないだろう。ただしそんな表現者たちの作品が誰かの心を救っているというのも確かなのだ。

 
猫を背負って町を出ろ! (角川文庫)
大槻 ケンヂ
角川書店
2001-07-25