村上春樹 雑文集
村上 春樹
新潮社
2011-01-31


村上春樹さんの「雑文集」という本に「壁と卵」というエルサレム賞受賞のあいさつが掲載されている。今年に入ってからの中東を巡るメディアの言論の中、ふとこのあいさつを思い出した。村上さんがエルサレム賞を受賞したのは2009年2月。当時ガザの騒乱に対するイスラエル政府の姿勢に非難が集中しており、村上さんがエルサレム賞を受けたことについては、国内外で激しい批判があった。村上さんとしても受賞を断ることが一番楽だった。

でも遠くの土地で村上さんの本を読んでくれているイスラエルの読者のことを考えると、そこに行って、自分の言葉で、自分なりのメッセージを発する必要があると村上さんは思った。挨拶の原稿を書いている間、村上さんは「ずいぶん孤独だった」そうだ。

村上さんは「ビデオで映画『真昼の決闘』を何度も繰り返し見て、それから意を決して空港に向かった」というのだから壮絶と言ってもいいくらいの覚悟があったようだ。それは真実を報道するために戦場へ向かうジャーナリストの覚悟に似ているかもしれない。

村上さんは小説家というのは「どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない種族」だと言う。ジャーナリストと小説家は全然違う職業だが、「何かを伝える」という点では同じはず。表現の形式は違うが似ている種族ではないだろうか。単純な自己責任論をはるかに超えた領域で、崇高な使命感を背負って戦っているように感じる。

村上さんの伝えたいメッセージはひとつだけだった。次のようなメッセージだ。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」

「爆撃機や戦車やロケット弾や機関銃」は硬く大きな壁であり、それらに「潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民」は卵というのがこのメタファーのひとつの意味だ。自爆テロの犠牲となった少女は何と無力な卵だったことか。卵とは弱者である。弱者とは努力の足りない怠け者ではない。どれだけ努力してもどうにもならないから弱者なのだ。硬く大きな壁にとって卵はどうでもいい。卵がどうなろうと知ったことではないのだ。

しかしもっと深い意味を村上さんは込めている。「我々はみんな卵」であり、「硬い大きな壁に直面」している。その壁は「システム」と呼ばれている。そのシステムは「本来は我々を護るべきはずのもの」だが、「あるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させる」のだ。

ひとりひとりの人間はシステムの前では無力な卵である。しかし最初からシステムが卵の敵だった訳ではない。システムは暴走する。本来の役目を忘れる。守るべきだった卵を殺す。卵を使って卵を殺す。残酷なシステムを作ったのが我々卵であるとは何と皮肉なことであろうか。

村上さんが小説を書く理由はひとつ。「個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光をあてる」ためである。そして「我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす」のが物語の役目だと村上さんは信じている。

人間には魂の尊厳がある。人間として絶対にしてはならないことは、他人の魂の尊厳を損なうことだと思う。しかし人間の魂の尊厳を守ろうという理想は、無残な現実の前に今にも消えそうだ。村上さんの目にも「勝ち目はない」ように見えるが、それでも人間は「生きた魂」を持っていることに希望を見る。「システムに生きた魂はない」というのが村上さんの戦術である。

我々は戦争の中にいる。毎日のように卵が割れている。卵が守られる日が訪れる気配はない。世界に無力感と絶望感が蔓延している。それならば出来ることはただひとつ「卵の側に立つ」ことだけだ。それは簡単なことではない。不可能なことのようにも思える。

それでも卵の側に立つことに強い使命感を持つ人がいる。システムにはそのような使命感を持つ人はいない。どれだけ弱くてもシステムに対抗できるのは「魂の尊厳」だけなのだ。そしてひとりひとりに魂は与えられている。自分という人間がかけがえのない魂を持っているのだということを、今こそ強く認識すべきだ。人間に与えられた最高の権利は魂の尊厳なのだから。

村上春樹 雑文集
村上 春樹
新潮社
2011-01-31