宰相A
宰相A [単行本]
田中 慎弥
新潮社
2015-02-27


田中慎弥さんの新刊「宰相A」が問題作として話題になっている。「週刊現代(2015年4月4日号)」に田中慎弥さんのインタビューが掲載されていたので、その記事と「宰相A」の一部を引用させて頂きながら「宰相A」の魅力に迫りたい。(「」は「週刊現代」からの引用。『』は「宰相A」からの引用)

田中慎弥さんは新潮新人賞を受賞してデビューし、その後川端康成文学賞、三島由紀夫賞、芥川賞を受賞するという純文学の王道を歩んできた小説家だ。そんな田中さんが「いわゆる純文学と呼ばれるものを書いてきましたが、作家として変わらなければいけないという意識が強くあって、これまで書いてこなかったある種ファンタジックなストーリーを広げた」のがこの作品だ。

田中さんの必要とする変化とは何だろう?この発言からは純文学というジャンルを冒険的に逸脱し、他ジャンルの手法なども取り入れた新しい小説を目指したとも解釈できるが、本当のところはどうなのか?実際この小説は、これまで封印してきたであろうエンタメ要素が強化された小説になっている。作家Tが、母の墓参りに向かう途中、不思議な世界に迷い込む。そこは深緑色の制服を着たアングロサクソンが日本人としてモンゴロイドの旧日本人を支配し、世界中で戦争をしているもう一つの日本だった。もう一つの日本には次のような制度がある。

『日本国民には出生と同時に漏れなく国から、ナショナル・パス(N・P)が発行される。これにはN・Nが記載、入力されている』。これは現実に導入が決定している例の制度と同じだ。『N・Pを持たないのは国家に、つまり民主主義に反逆する意図があると疑われる』。

『旧日本人として、政府が設定した特別な居住区に暮らしている。外側の、日本人と同じ社会での生活は許されていない』。これは人種差別、人種隔離政策、アパルトヘイトの復活だ。

『民主的な日本に害を及ぼすものはなんであれ正義と民主主義の敵であるのだから、その敵を排除するために使用される武器、攻撃力はまさに民主主義の根幹であり、子ども達にアンケートを取れば、将来就きたい仕事として軍人は常にトップとなる』。軍隊こそが民主主義の根幹であり、軍人には最高の栄誉が与えられる。

以上のようなシステムにより、もう一つの日本は『完全民主主義国家』を実現している。まるで村上龍の「5分後の世界」のようでもある。村上龍も「愛と幻想のファシズム」以降、政治を積極的に小説に取り入れてきたが、田中さんも本作で「明らかに今の政治状況を取り込んで」いる。そして現実の問題を反映させるため、村上龍が5分後の世界を舞台にしたように、田中さんも迷い込んだ異世界を舞台にしている。そこは絶望と不安に満ちたカフカの「城」の世界も彷彿とさせる。

宰相Aは明らかにあの人をモデルとしているのだが、田中さんは「もちろん、Aは安倍晋三総理であり、アドルフ・ヒトラーでもあります」とあっさり認める。田中さんは安倍総理について「日米関係を継続させつつ戦後レジームから脱却するという理屈には、どこかで必ず矛盾が出てくる」と安倍総理の「わからなさ」を日本そのものの「わからなさ」に重ねて見ている。

次の発言がおそらく「安倍=アドルフ・ヒトラー」をモデルとしているということなのだろう。「安倍さん自身は悪い人でもないし、独裁者になるつもりもないでしょう。だけど、そういう弱い部分が逆に怖い気もするんです。無理を重ねて、エキセントリックなところまで行ってしまうのではないかと」。

宰相Aは演説する。『我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります』

旧日本人の中に、かつてJという英雄がいた。主人公のTは彼と瓜二つだったことから「Jの再来」とされる。このアイデアのきっかけは、08年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件だ。「取り押さえられた加藤智大の横顔を見て」、田中さんは「私に似ている」と思った。それがずっと気になっていたという。

だから事件から7年が経過して、ようやく小説に使用したということだ。7年という短くはない歳月にはどんな意味があるのだろうか?2013年のTBS「情熱大陸」に出演した時に、田中さんが秋葉原を取材する姿がカメラに収められていたが、その時すでに本作のイメージの予兆のようなものはあったのだろうか。そして加藤智大と田中慎弥が似ているとはどういうことなのか?田中さんは自分が加藤と同じことをしていた可能性があると思ったのか。

Jは加藤智大だ。加藤は英雄なのか?そしてJはTだ。加藤は田中さんだ。Jの怒りはTの怒りだ。加藤の怒りは田中さんの怒りだ。Tは政府にとっては危険物。そしてTは救世主となる。

Tは「紙と鉛筆をくれ」と繰り返す。旧日本人たちは「小説なんてなんの役にもたたない」と無視する。田中慎弥さんも、今でも必ず毎日紙に鉛筆で小説を書いている。「紙と鉛筆をくれ」というのは田中慎弥さんの叫びでもある。

本書の舞台であるもう一つの日本では、『日本のように極めて成熟、完成された民主国家において、例えば作家などの芸術家が国の認可なく表現活動を行うことは許されない、というより必要とされない」のだ。何とも薄ら寒い設定ではないか。

田中さんは、今の日本は自由に表現することが憚られるような、「何かイヤな空気が漂っている」気がするという。「小説を書くことの力は小さいが、ただ書きたい。わがままな欲求だけで書くのが小説」というものだと信じている。

2013年7月東京国際ブックフェアの田中慎弥さんと平野啓一郎さんと柴崎友香さんの鼎談に出席したのだが、その時に「読書との出会い」に関して、田中さんが「子供の頃に母親に布団の中で読んでもらったジャックと豆の木」と話していたことが印象に残っている。実際に田中さんは物心つく前に父親を亡くし、母親の手だけで育てられた。

本書でも主人公Tは母親しか知らず、母親は息子に次のように語りかける。そこには田中さんの原風景があり、小説を書くことへの思いが凝縮されている。そしてJが英雄になったのも母親がきっかけだった。

『さ、いくらでも書けばいいの。ただし途中でやめちゃ駄目。ずっとずっと、たとえどんなに大変なことがあっても惨めな目に遭っても書き続けなさい。残念だけどあなたは主人公じゃない。あなたは言葉を身につけて言葉で闘いなさい。言葉で逃げなさい。逃げながらでもいいから、お話を作り続けなさい。』

田中さんもこれまでどんなに大変なことがあっても、惨めな目に遭っても、書き続けてきた。田中さんは勉強もスポーツも出来なかった。そんな田中さんが出来ることは、本を読むことと小説を書くことだけだった。高校卒業後、一度も就職せず、アルバイトさえしなかった。部屋に引きこもり、ひたすら小説を読み、30歳を超えて運良くデビューするまで、たった一人で小説を書き続けた。そして今も文字通り田中さんは言葉で闘い続けている。

小説とは作家が読者に何かを伝えるために書かれる。今回田中さんが伝えたかったのは、「私には今の世の中がこんな風に見えることもあるんだけど、皆さんはいかがですか?」ということだ。今の世の中は何だか不愉快で気持ち悪い。嫌な予感しかしない。『諦め。壮絶な諦め。立派な諦め。鯨並みに圧倒的な諦め』『私は頭に来てる。それ以上にうんざりだ』。

いずれにしても非常に意欲的で、野心的で、挑発的な作品に仕上げたとの強い自負がうかがえるし、実際にそのような作品になっている。この作品では文学が文学の役目をしっかり果たしている。救済のために絶対に必要なのは「紙と鉛筆」だけなのだ。

『母さん、これでいいね?なんてったって言葉より大事なものなんか、言葉を並べ替えて出来る面白いものより大事なものなんか、あるわけないよね?』



宰相A
田中 慎弥
新潮社
2015-02-27