エンタメ小説は読者に文体を意識させないよう無色透明な文体を心掛ける。読者がストーリー展開に専念できるようにするためだ。一方純文学の場合、文体はストーリー以上に重要である。場合によってはテーマ以上に重要な時もある。文体に個性と充分な魅力がなければ、純文学小説としては到底成り立たない。

西村賢太の文体は、現在の他の作家の誰にも似ていない文体であり、久しく表舞台から姿を消していた文体でもある。当然ながら西村賢太が若き日より愛読してきた私小説作家たちの影響を受けている訳だが、それらを自分なりに消化し、西村賢太オリジナルの文体を作り上げたのは、紛れもない才能である。

西村賢太の小説にはストーリーらしいストーリーはほとんどない。テーマも多い訳ではない。貧しくて家賃をしょっちゅう滞納したり、友達や女がいなくて寂しく、女体を買い酒を飲んですぐにお金を浪費し、すぐに喧嘩したり自分の不遇を呪ったり、同棲相手の女性へDVを繰り返したり、材料自体は同じものが何度も使用されているにもかかわらず、一作一作が個々に面白く仕上がっているのはお見事である。

その最大の要因が文体にある。西村賢太の文体の魅力を言葉にするのは難しい。味がある。匂いがある。ユーモアがある。ほどよい自虐がある。冷徹な作者の目もある。よく煮込まれた料理のようである。

特に「貫多は根が〜にできている」というのが、西村賢太文学における最大の決め文句となっている。本作「刑影相弔」においては「根がクールなリアリストにできている貫多は」という文句が出てくるが、「クール」も「リアリスト」も、貫多のような醜い駄目男のイメージからはかけ離れているからこそ、思わず笑いを誘い、多大なる効果を発揮するのだ。

本作「刑影相弔」のストーリーは「貫多の作家デビューからA賞受賞に至るまでの経緯、そして師・藤澤清造への思い」、これだけである。 わざわざ小説にしなくとも、随筆でも足りるようなテーマである。

これだけのストーリーが小説として上手く仕上がっているのはなぜか。それは小さな幸福と不幸に対し頻繁に浮いたり沈んだりする、捻くれて歪んでいる、面倒くさくて厄介で狷介な貫多の性格と心境を、ねちっこく、しかし滑稽に、しかも時に爽やかに描く文体があってこそのものなのだ。

この西村賢太の文体に読者は知らぬうちに深みに嵌り、それが次第と骨絡みになっていくのである。文中では「貫多は元より量産の利かぬ非才の身」と書かれているが、実際の西村賢太は「量産の利く多才の身」であり「甘な作家ではない」のだ。







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