東山線の名古屋駅で地下鉄1日乗車券を買い、改札を抜けて階段を降りると、いつものように地下鉄独特の風が吹いてくる。僕はすぐにやってきた黄色いラインを車体に走らせた列車に乗って、名古屋駅から伏見駅、栄駅、新栄駅を経て、まずは千種駅で降りる。

 千種駅を降りて、予備校の建物を眺めながら歩くと、すぐに「ちくさ正文館書店」が見えてくる。僕は毎週「ちくさ正文館書店」で新刊書をチェックする。この書店にディスプレイされた新刊本は、毎週確実に何冊かが僕の胸に突き刺さる。そのワクワク感、ヒリヒリ感がたまらない。

 店長さんはいつものエプロンをかけて、恐ろしく真剣な表情で棚を見つめながら、次から次へと本を並べている。その緊張感が、この伝統ある書店の空間を支配していて、この本屋が好きな常連客にはたまらない。

 ちくさ正文館書店で何冊か新刊本を買い、書店の前の通りを今池駅まで歩いて、今池駅から再び東山線に乗り、次の覚王山駅で降りる。

 エレベーターで地上に出ると、日泰寺へと向かう緩やかな坂道をのんびり歩く。道沿いに並ぶいろいろなお店、畳屋、布団屋、食堂、カフェ、パン屋、雑貨屋、駅前旅館などを眺めながら、ときおり視界の隅にタワーマンションが入ってきて、その上に広がる空を眺める。この道沿いは、伝統ある古いお店と若い人が営む新しいショップが絶妙のバランスで並んでいて、歩いているだけで本当に気持ちいい。

 その通りをのんびり歩きながら、僕は懐かしいビッグバンドジャズを口ずさむ。日泰寺の向こう、その先に、突然異世界が出現したかのように、ユニークな建築の東山給水塔が静かに佇んでいる。歩いていると、この覚王山の通りが、モーリス・ユトリロの「モンタラン通りと教会」のモンタラン通りに見えてくる。ユトリロが愛した「白」の世界が静かに浮かび上がってくるよう。そして教会の鐘が鳴り出すのが聞こえてくる。

 今日のお昼ご飯はどこで何を食べようか?

 覚王山名物カニクリームコロッケの「ひらき」、大盛り過ぎるカツ丼の「玉屋」、インド料理の「英国屋」、ハンバーガーの美味しいBOOK STORE&COFFEESHOP 「ZARAME」、覚王山アパートの古本カフェ「アムリタ」・・・

 便利で豊かな生活と引き換えに、どんどん人間は忙しくなり、ますます人間は疲れた存在になっていく。そんな時代に生きている。そのような世界に生きながら、同時にのんびり贅沢な時間を味わうことは、もう許されないのだろうか?

「自由」が許されない社会。
「自由」が憎まれる時代。
「自由」をあきらめた人びと。

 そして僕は自由と孤独について、また考える。自由を求めれば求めるほど孤独になり、孤独になればなるほど、誰かを求めてしまう。でも他人に囲まれると、再び自由を求め、また孤独に戻り・・・一人きりの静かな生活と他人に囲まれた賑やかな生活と、いつまでも行ったり来たり。

 苦しいのだ。僕は苦しい。僕は苦しんでいる。今までも、そしてこれからも。突然、呼吸がうまくできなくなる。膝に手を置いて身体を折り曲げ、呼吸を落ち着かせる。今僕が震えているのは寒さのせいじゃないんだ。

 再び歩き出した僕は、しばらく路地を行ったり来たりして悩みつつ、 結局、「ZARAME」に入ることにした。色とりどりのドーナツの並ぶレジの向かいの席に座る。カウンターの傍に小さな本棚があって、とても大切にされている古本が行儀よく並んでいる。

 その中から、しばらく迷った後、僕はデニスホッパーの写真集を選び、席に持ってゆく。

 小さな銀色のグラスに入った水を一口飲み、軽く深呼吸をする。お手拭きで口を拭う。入り口の横の大きな窓から、通りを歩く少女を眺める。そしてまた、僕は思う。

 ここに彼女がいてくれたら…
 ここに彼女がいてくれたら…

 隣に君がいてくれたら…
 隣に君がいてくれるだけで、僕はどんなに幸せだろう。

 でも、もう彼女はいない。
 彼女はここにいない。
 ここだけでなく、もう彼女はどこにもいない。

 ここにいない彼女を、僕は呼んでいる。
 ここにいない彼女の魂を、僕の魂はまだ求めている。

 彼女は消えてしまった。僕は彼女を失ってしまった。
 たぶん、永遠に・・・
 これまで彼女以上に愛した女性はいなかったし、おそらくこの先も出会うことはないだろう。僕は自分の中に特別な場所を作り上げた。彼女のためだけの特別な場所だ。そこで毎日僕は祈りを捧げる。

 これが「寂しい」という感情だろうか?「寂しい」と感じるのは僕が生きている証。そう考えると「寂しい」という感情も悪くはないように思える。

 自分が今どこへ向かっているのか?何をしようとしているのか?僕は「世界の終わり」を待っているのだろうか?それとも「世界の始まり」を待っているのだろうか?もし君がここにいてくれたら、すぐに答えが出るような気がしている。

 いつも彼女は遠くを眺めていた。黒くて短い髪の毛の彼女は、いつまでも遠くを眺めていた。長い手を不器用に伸ばしながら、遠くを眺めていた。決して僕の方を見ようとはしなかった。もう、彼女の視界に僕が入るという可能性はないようであった。僕は、「なぜなんだろう?」と何度も自分に問い掛ける。「なぜ自分は、彼女とは全く別の世界に生きることになったのか?」と。

 その時に僕を襲った感情は、「悲しい」とか「寂しい」とか、「辛い」という言葉では言い表せない、何か自分自身の存在を根底から揺さぶられているような、、嵐ような感情であった。僕はそんな嵐にひとりで耐えた。ひとりで耐えるしかなかった。泣いたら楽になる、というものでもないことはわかった。もうどうにもならないという絶望感に視界は真っ暗な闇に閉ざされた。

 しばらくそんな闇の中でもがき苦しんだ後、少しずつ窓の外から入る太陽の光が、また僕を照らし始め、自分自身を持ちこたえるため、僕は再び、すがるような気持ちでデニス・ホッパーの写真集に目を落とした。




BGM:White Forest  Cicada

White Forest [FLAU70]
Cicada
FLAU
2017-11-22