生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20



 今の日本の作家で「文士」という言葉が最もふさわしいのは町田康ではないか。現在は小田原在住らしいし、小田原在住の町田康を「文士」と呼ばずして一体誰を「文士」と呼べばいいのか。小田原で悠然と小説を書いている町田康はおそらくかなり「絵になる」はずである。別に作家は絵になる必要はないし、文士である必要はもっとないのだが。

 町田康の最新書き下ろし小説「生の肯定」は久しぶりに、デビュー作「くっすん大黒」ぶりくらい、町田節が大炸裂していて、くすくす、オホホホと笑いながら一気に2時間くらいで読み終えた。短編小説ではないが、超長編小説でもなく、短めの長編小説だが、町田康はこのくらいのサイズの小説が最も本来の魅力を発揮できるようだ。

 語り手は「余」である。村上春樹は「僕」「ぼく」「私」「わたし」などいろいろ試行錯誤しているのは有名だが、町田康は「余」の一択、これしかない、これで決まりの問答無用の「余」である。

 村上春樹の「騎士団長殺し」の「私」も小田原に住んでいるのだが、「私」の友人である雨田政彦がこう言う。

「しかしおまえはいちおう絵描きだろう。アーティストだろう。だいたい芸術家っていうのはもっと派手に羽目を外すものだぜ。おまえは昔からなかなか馬鹿げたことをしない男だった。いつだって筋の通ったことをしているみたいに見えた。たまにはそういう抑制を解いた方がいいんじゃないか?」

 一方、「生の肯定」の「余」は、作家、芸術家らしいのだが、派手に羽目を外そうとしていないのに、結果的に思い切りド派手に羽目を外す。馬鹿げたことをしないように努めているのに、結果的に馬鹿げたことをしてしまう。筋の通ったことをしようとしても、確実に筋が通らなくなる。抑制しようとしつつ、その抑制は虚しく解かれてゆく。

 余は生の方へ向かおうと思った。余は恥ずかしい自慢たらたらの文章を書く。それは、それこそが生の方向である、と気づいたからだ。余は人間社会に帰還する。うんざりするような自分語り、にも陥らず、ドゥルーズ・ガタリのごとき難解の死闘、にも陥らず、町田康節は続いてゆく。

 余は今日もスケをこなす。スケなどと言ってしまって、お里が知れてしまった。余は若い頃、映画に出演したことがあり、スケジュールのことをスケなどと言ってしまう。今日の余のスケは、横浜美術館に行く、である。ところが今住む街から横浜に行く方向がわからない。

 余はスーパービュー踊り子号に乗るのだが、なかなか切符が買えない。券売機械かみどりの窓口か悩む。しかし、人と人のつながり、ぬくもり、そんなものは豚の小便である。と断じて余は、機械式の券売機に向かう。ところが、余は新幹線の券を買うのはお手の物であったが、在来線の券、に関しては、昨日、鳥取の山奥から上京してきたアルメニア人のようなものであった。

 そして余は・・・余は・・・



生の肯定
町田 康
毎日新聞出版
2017-12-20






湖畔の愛
町田 康
新潮社
2018-03-22