村上春樹さんは何より自由を重んじる人だ。「騎士団長殺し」の雨田具彦がファシズムや軍国主義を憎み、自由を希求したように。

 本書でもファシズムや軍国主義まではいかないものの、第八回「学校について」において教育から話が始まり、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムについて語っています。「日本の教育システムの矛盾は、そのまま社会システムの矛盾に結びついている」ということを言いたかった。その為には、その矛盾をこれ以上放置しておくわけにはいかないと強く感じていたからこそ、わざわざ「学校について」という章を設けたのです。

 それではなぜ「職業としての小説家」という本に、そのようなことを書かねばならなかったのか?

 村上さんには日本の社会がより洗練された方向に進んでいるとは思えない。例えば、福島の原発事故については、「これは根本的には、日本の社会システムそのものによってもたらされた必然的災害(人災)なんじゃないか」と暗澹とした思いにとらわれています。

 雨田具彦がウィーン滞在中に暗殺計画に挫折し、「暗澹とした幾つかの事実」を経験したように。それは村上さんが60年代後半に経験した挫折、暗澹とした事実が、今もなお続いていると言うことではないか。

 学校について語ることによって、「現行システムの抱える構造的な欠陥、それが生み出したひずみ、システム内における責任の不在、判断能力の欠落、他人の痛みを想定することのない、想像力を失った悪しき効率性」と言ったものを徹底的に批判したかったのだと思います。

 小説家としての村上さんは他人の痛みを想定外にすることだけは絶対に許せない。村上さんは長編小説「騎士団長殺し」にも、おそらく同じ想いを込めて書いたはずです。まさに雨田具彦が「騎士団長殺し」という絵を描かなくてはならなかったうに…

 やはり全ては繫がっている。

 作家:村上春樹は常に殺された側、押しつぶされた者の痛みに寄り添う。エルサレムでの「壁と卵」というスピーチで表明したように。それが作家としての基本姿勢です。

 「数値重視」「効率優先」という不自由な枠組みから人間を解放すること。それが作家としての自分の重大なミッションの一つであると確信していると思います。

 そのような「逃げ場の不足した社会」の解決方法として村上さんは「個の回復スペース」を作ることを提唱しています。それは「一人ひとりがそこで自由に手足を伸ばし、ゆっくり呼吸できるスペース、温かな一時的避難場所」であると定義されていますが、それは村上さんが小説を書くことで作り出そうとしているものに通じるものがあると考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

 本書は小説家志望の人だけでなく、自由人志望の人にも向けられた本です。「好きなことを、好きなときに、好きなようにやること」、それが村上さんにとっての自由人の定義です。

 「会社に就職するのがいやだったので(どうして就職するのがいやだったのか、これも説明するとずいぶん長くなるので省きます)」とあるのですが、どれだけ長くなってもいいので、村上さんの説明を聞いてみたいです。おそらくその説明が小説家=自由人であるべき、と言う考えにつながるのではないか。

 特に印象に残ったのは次の箇所です。「どれだけ忙しくても、生活がきつくても、本を読むことは音楽を聴くことと並んで、僕にとって変わることのない大きな喜びであり続けました。その喜びだけは誰にも奪えなかった。」この文章に一番震えました。ここに村上春樹さんの原点を見ました。

 村上春樹さんは文学賞の選考委員をつとめたことが一度もありません。その理由は「僕はあまりにも個人的な人間でありすぎるからです。」とはいえ、村上さんは自分のそのような態度に後ろめたい気持ちもお持ちです。

 「そういう僕の態度は作家としての社会的責任の放棄にあたるんじゃないか」「僕だって新人賞を受賞したから小説家になれた。同じようなサービスを若い世代に向かって提供する責務があるのではないか?」との自問自答を続けてきたのでしょう。

 それでも村上さんに文学賞の選考委員をつとめるつもりはありません。だから、その代わりに本書を執筆したのではないでしょうか。これは村上さんなりの若い世代への責任・義務を果たすために書いた本でもあると言えます。

 リズムとバランスが、村上さんにとって大事なキーワードとなっています。作家にとっても、或いは社会にとっても、正しいリズムを刻むこと、バランスを取ること、「世界をバランスよく見る視野」が大事。それによって「奥行きと深みと内省」が生まれる。

 村上さんの小説家としての出発点、「職業としての小説家」の原点が、「神宮球場の外野席で、自分の手のひらにひらひらと降ってきたもの」と「千駄谷小学校のそばで拾った、怪我をした鳩の温もり」の感触・記憶にあるのは間違いありません。

 柴田元幸さんが本書の帯の推薦文において、「これは村上さんが、どうやって小説を書いてきたかを語った本であり、それはほとんど、どうやって生きてきたかを語っているに等しい。だから、小説を書こうとしている人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及ばず、生き方を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的なヒントと励ましを与えてくれるだろう」と書いています。

 本書を手にとってくれた読者が、「自分の中にあるはずの何かを信じ」「それが育むであろう可能性を夢見る」ようになることを、村上春樹さんも柴田元幸さんも強く願っているはずです。おそらくそのために「職業としての小説家」という本は出版されたのです。